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百景図よもやまばなし

第49図 喜時雨という地名

49先の瓦窯から100メートル

上流辺りになるのだろうか。

ここから川は大きく左にカーブし

51図の御猟場へと続く。

それにしても城の西側一帯を

喜時雨(きじゅう)と昔から呼んでいるが、

この地名は一体何からきているのだろうか。

非常に珍しい呼び名である気がする。(九州にはくじゅうというのがあるが)

喜ぶ時雨(しぐれ)と書いてきじゅう。確かにきじゅうは雨を喜ぶ地である。

ここは水利の非常に悪いところである。その証拠に沢山の溜め池がある。

津和野神社の絵にも、鳥居の近くにそれらしき場所がある。今は埋立てられ小さなグランドになっている。

「きじゅう」は昔から水の便が悪く、雨の降ることを待ち望んでいたそんな地なのである。

だから喜時雨。でき過ぎている。

実は古い資料で見ると喜時雨は、「木汁」あるいは「喜汁」と書かれている。

一体いつから今の字に収まったのだろうか。鷲原の常夜灯の字には「喜時雨組小頭」寛政十年とあるから

1798年ごろは定着していたようなのだが。

私は歴史学者ではないので適当なのだが、一つの妄想を持っている。

それは坂崎出羽守の時、築城家として紀州から人を呼び寄せている。

その人たち、紀州組が住んでいた場所。すなわち「きしゅう」が訛って、

「きじゅう」と言われるようになったのではないか。

亀井家の時代、「戦」も「幾久」となったように。

私なりに勝手にそんな妄想を巡らしている。証拠は何もない。

誰か真相を教えてほしい。