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津和野百景図【第二巻】
百景図一挙紹介
第二巻
【第二十一図】太皷谷稲荷社 たいこだにいなりじんじゃ 太皷谷稲荷社は城山にある有名な社で、盗難その他失せるものある時にこの社に祈願すれば、返ってこないものはないといわれていた。ここを崇敬する者は多く、その名声は九州あたりにまでにも及んでいた。
大正年間、山口線(現JR)の開通で参拝者も増え次第に神社域を拡大させて今日のような形になった。津和野の主要な観光スポットでもある。山の麓にあるのは、左が日輪社、右が観音堂。
【第二十二図】大橋 おおはし 下中島と殿町との間に架けられている橋を大橋という。この橋はもともと跳ね橋で、あまり例がない橋であったという。里治は「今はふつうの橋に架け替えられてしまった。どのような理由かは分からないが、大橋には擬寶珠(ぎぼし)がない」と嘆いている。
いつごろ誰が作ったかわからないが、無いもの尽くしの謡が当時はやったという。「大事の大橋ぎぼしが無い、すミやの親方羽織が無い、牧さんふたりに女房が無い」と。
【第二十三図】殿町 とのまち 殿町は上級武士が住む所で、道路の幅が十二間(約21.6m)もある。西側は多胡(たご)、大岡、牧の三家老の屋敷、東側は藩校養老館の文武稽古場で、南から槍術、剣術、柔術居合場、続いて本学、兵学、礼学、数学、医学、儒学等の教場があった。
嘉永6年(1853)の大火前には細野、布施田の屋敷があった。絵には現在ある掘割が描かれておらず、養老館の建物や塀の石垣の下が道路面となっている。掘割は明治期の国道整備でできたものと思われる。
【第二十四図】養老館内馬術練習
ようろうかんないばじゅつれんしゅう 殿町の養老館内にあって、藩主中小姓以上の子弟馬術を練習するところであった。この当時は、下間忠亮が教鞭をとった。土蔵は書庫で、この中に先聖孔子の銅像があって春秋釈典の儀式が執り行われていた。
【第二十五図】牧氏の孟宗竹 まきしのもうそうだけ 牧氏の屋敷の後ろに竹やぶがあった。ここに生えている竹はその胴回りが三尺(およそ90cm)もあり、近くにはない稀に見る大きなものである。描かれた場所は現在も竹が繁茂しているが、竹林としては整備されていない。
【第二十六図】殿町総門 とのまちそうもん この門は、城郭の北の境の関門、殿町より本町に出る門で手前に番所があった。昼も夜も番人を置き、他所の人が入ることが禁じられていた。本町側に制札があって、「是より内へ他所のもの入るべからず」と書いてあった。また、本町側から殿町が見えないように土塀があった。
【第二十七図】永明寺坂 ようめいじさか 永明寺は、市街にある古いお寺である。
文久2年(1862)、参覲交代の制度が改められ江戸の正室と子の帰国が認められた。藩主茲監侯の正室、貢子(みつこ)の君は同年11月に江戸を出発し、翌年正月に津和野の御殿にお着きになり、行列を組みはじめて永明寺を正式参拝された。この図は永明寺坂の途中の行列を描いたもの。乗物の紋章が「丸に葵」になっているのは、奥室の里方である讃州高松城主、松平家の家紋である。お付の女中が装っている帯は筒帯である。
【第二十八図】覚王山永明寺 かくおうざんようめいじ 永明寺は、三本松城の西の麓にあって藩主の歴代菩提寺であったが、茲監(これみ)が葬祭を神式にあらためられた際に離檀となった。
この図はまだ菩提寺であったときに藩主が参拝している様子を描いたもの。藩主は内門で駕篭(かご)を降りて歩いて本堂に向かう。内門の外ではお付の者たちが待っている様子を描いたもの。
【第二十九図】蕪坂 かぶさか 蕪坂は津和野城の続き(北の端)、後田(城下)より虹ヶ谷(畑迫)へ越える峠で、麓に口屋あった。ここは市街の西の境である。
昭和8年(1933)に堀家の出資によりトンネルが整備されたため、この峠は利用されなくなったが、今も峠へ通じる道や峠に遺構らしき場所が残っている。
【第三十図】原 はら 原は津和野市内の郭内(丸の内)の一地名で、御殿の南、城山の麓にあった。ここに関門があって原の番所と言われていた。
昼も夜も門番を配置して夜中の通り抜けが禁止されていた。関門の位置は不明だが、絵に描かれた右の石垣手前の水路は現地に一部が残っている。
【第三十一図】常盤橋 ときわばし 津和野市街の杉片河(すぎかたこう)より上中島に架かる橋である。前にあるのは杉片河の土手。この土手には嘉永6年(1853)の大火までは杉の大木があって、これが杉片河の名前の由来となった。これは長州境の野坂峠から御殿を見られないように植えられたもの。
以前は筋違い橋と言っていたが、享保元年(1716)6月に常磐橋という名前に改めたのである。今は鉄の橋になっている。現在は常磐橋と表記されている。
【第三十二図】鷲原口屋外と あしばらくちやそと この図の中門までが津和野市街で、その外は市外であった。この図は鷲原崖よりも手前のところ。藩主は毎月6日に幸栄寺に参詣するのが習わしで、その行列の先頭が門の外に出たところを描いた図。土塀を支える石垣は道路整備により壊されてしまった。
【第三十三図】鷲原崖の橋 わしばらがけのはし この橋は津和野市街より外の鷲原崖の酒屋の前に架かっていたもの。大蔭へ渡る橋梁で、神田通り、長州の加年(嘉年)村に通じていた。今も車が1台通れる幅の橋が架かっている。
【第三十四図】鷲原大夜燈 わしばらだいやとう 鷲原馬場の入り口に大夜燈がある。それを奉納したのは喜時雨組の小頭、足軽、上市組の小頭、足軽と記されている。これは喜時雨村が以前津和野市街の内にあった時のものか。この夜燈は今も残っていると当時里治も喜んでいる。
後に道幅を拡幅する道路計画があったが、町の人の努力で道もこの燈籠も今も大切に残されている。
【第三十五図】鷲原八幡宮其の他
わしばらはちまんぐうそのた 鷲原八幡宮は城山の麓にあった。中央の八幡宮は元中4年(1387)吉見正頼(まさより)が鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請したもの。楼門と拝殿は竹田の番匠(ばんじょう:九州は竹田の大工の棟梁)が造ったと言い伝えられている。右にあった下山神社は亀井家が勧請したもので、明治4年(1871)に亀井家が東京へ移住した際に移転となった(現在、中座の丸山公園に下山神社がある)。
他に馬見処、木馬堂、通夜堂、額堂、厳島神社、金比羅神社、愛宕神社、天満宮、淡嶋神社、鷺大明神などが紹介されている。
【第三十六図】鷲原のやつさ わしばらのやつさ 「やつさ」とは毎年旧暦の8月13日の祭礼で、いわゆる流鏑馬(やぶさめ)のこと。馬にまたがって走りながら的を射ることをいう。
御神幸の後に行われ、2人の農夫がそれぞれ3回ずつ計6回馬に乗って矢を射った。津和野で「やつさ」と呼ばれるようになったのは、青原村の弥三郎(愛称が、やつさだったか?)というものが初めて乗ったことからとのことで、鷲原でも同じように呼ぶようになったという言い伝えがある。
左右から群衆の見物人が扇をあげてハラアハラアと追うために、落馬することも多かった。この日は藩主の上覧があった。
【第三十七図】鷲原愛宕神社の大杉
わしばらあたごじんじゃのおおすぎ この大杉は三本松城の内にある愛宕神社の傍らにある。樹齢千年ともいわれるが、どのくらいの年月が経っているかわからない。愛宕神社は今はないが、大杉のたつ敷地の突端部に郭状の神社跡らしき場所が残る。
もちろん大杉も健在で、社叢の中でもひときわ目立つ。
【第三十八図】鷲原馬場 わしばらばば 吉見頼行(よりゆき)が弘安7年(1284)に木曽野(旧木部村)から津和野に移り、正中元年(1384)に三本松城が完成、その後に造られた馬場である。長さがおよそ百十八間半(220m)、横が十三間(24m)である。
この馬場において、毎月騎射による稽古があって、この絵が描かれたころは教師は中山和助と石河官左エ門の2人が務めた。
【第三十九図】鷲原の桜 わしばらのさくら 鷲原の桜は土手の松の間にあり、開花のころは里人にとって一番の遊覧場であった。誰が詠んだかわからないが、「もゆる春日に匂ふなる桜に名高き鷲原のうすくれなゐの綾ころも云々」という文もあった。
また、「弥生の花見は寺田か鷲原か日くらしなま酔い気分で瓢箪ぶらぶら」などといった俗謡もあったという。
【第四十図】鷲原の紅葉 わしばらのこうよう この楓は鷲原の土手の松の大木の間にあり、桜と枝をまじえて立っている。当時、秋になると楓の葉と桜の葉が競い合うように赤く色づき、得も言われぬ眺めであったという。
今も秋になると紅葉や銀杏などが色づき、当時と変わらない秋の風情を見せる。