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津和野百景図【第三巻】
百景図一挙紹介
第三巻
【第四十一図】鷲原時雨の松 わしばらしぐれのまつ 鷲原馬場の外の土手にある古い松を時雨松という。この松の下の土が雨の日は乾いていて、晴れの日は湿っていた。よって「鷲原の七不思議」のうちの一つとされていた。
この松のあるところは民部の淵(鷲原橋の下の淵)に近い。幾久紀行(いくさきこう)という書物に「時雨の松も幾よの小深き蔭をうつすなる民部の淵は云々」の文がある。
【第四十二図】鷲原片枝の松 わしばらかたえだのまつ 鷲原馬場の中央、馬見処の前に大きな松があって、枝はたくさんあるが、片方側の枝だけに葉が繁茂していることから「片枝の松」といわれていた。
これも「鷲原の七不思議」のうちの一つであった。参道脇の土手の上、小さな燈籠脇の松のことか。
【第四十三図】鷲原幸栄寺 わしばらこうえいじ 吉見正頼(まさより)が元中4年(1387)に鎌倉鶴岡より八幡宮を勧請した際、その隣に寺を建立して僧侶を置いた。はじめ福満寺といい、後に幸栄寺と改めた。
亀井時代になって徳川将軍歴代の霊を祀り、藩主は毎月6日に参拝することが常となっていた。絵が描かれたころにはすでに廃絶して空き地となっていると里治は記している。
【第四十四図】幸栄寺の隠棲 こうえいじのいんせい 鷲原八幡宮の別當幸栄寺は始め福満寺と言われていた。幸栄寺の隠居処は馬場の北の外側、城山の麓にある三大師(現光園寺)の傍らの堀の中にあった。
安政年間に住んでいた老僧は書に長けていた。
【第四十五図】喜時雨崖 きじゅうがけ 喜時雨崖は津和野市街の西、喜時雨村落と鷲原八幡宮との間にあった。中ほどに高田村へ渡る小さな橋があり、道の傍らには鉱泉が湧き出ていた。今も鉱泉はこんこんと湧き出ている。
【第四十六図】喜時雨庄屋の前 きじゅうしょうやのまえ 城の西側にある村落を喜時雨といい、藩祖を祀る元武社があった。この図は亀井茲監が行列を組んで社参する様子を描いたものである。
【第四十七図】縣社津和野神社 けんしゃつわのじんじゃ 津和野神社は喜時雨村にあって、亀井家初代茲矩(これのり)を祀っていた。明和5年(1768)に茲矩の号、中山道月の神霊を埴安神社へ鎮祀し、京都の吉田家より武茲矩霊社の神号を送られた。
文久元年(1861)の250年祭の大祭に当たり社殿を改築、元武大神の神号を送られ、元武社とした。明治4年(1871)に郷社となって喜時雨神社にあらため、明治43年(1910)に津和野神社と称して縣社になった。社殿の彫刻が鮮やかですばらしく、誠に稀な造営物であったという。本殿を含む建物は昭和25年(1950)に火災で焼失した。
【第四十八図】瓦釜の松 かわらがまのまつ 喜時雨に「瓦釜の松」という松があった。この松は津和野市街の大橋よりちょうど一里のところにあった。
平川徳十郎というもの御家人に抱えられ、安政の初年に館閣造営のための瓦をすべてここで製造した。徳十郎はその功績により江戸足軽となった。里治は「今はこの瓦釜はなくなってしまったけど、松はそのまま残っている」と記している。現在松はないが、登り窯の遺構がそのまま保存されている。
【第四十九図】喜時雨瓦釜脇仮橋
きじゅうかわらがまのかりばし この仮橋は幾久の手前、喜時雨瓦釜脇より高田へ渡る仮橋であった。奥に見える杉の森は幾久の鴨御猟場である。
橋の位置は特定できない。
【第五十図】喜時雨寛助谷 きじゅうかんすけだに 津和野城の西側にある杉谷を寛助谷といった。それは、杉谷の麓に山番をしていた寛助というものの居宅があったので、里人がそのように呼ぶようになったのである。
【第五十一図】幾久鴨御猟場 いくさかもごりょうば 「幾久」は「いくさ」と読み、もとは「戦」と書いた。吉見時代の古戦場が地名の由来で、「戦」ではあまりにも殺伐としていることから文字を「幾久」に改めたという。現在もバスの停留所などに「戦」と表記されている。
この頃は、藩主の鴨の狩猟場になっており、猟期が近づくと「御猟方」という役職の家臣2名がここへ出張して鴨を飼って猟に備えた。手前の屋根は御茶屋で、ここから網の綱を引いて鴨を一網打尽にした。
【第五十二図】藩侯幾久鴨御猟略供
はんこういくさかもごりょうりゃくきょう 幾久鴨御猟場(第五十一図)に向かう藩主一行の図。まだ暗い早朝4時頃の出立だったので、高く掲げた提灯で道を照らしながら進んだ。
この図は、猟場に向かう途中、「杉方河(すぎかたこう)」というところ(西周旧居付近)を通行しているところ。土手の上に並んでいる大きな切り株は、国境の野坂から藩邸が見えるのを防ぐために植えられた杉並木が、嘉永6年(1853)の火災で焼失したために伐採したもの。遠景に青野山も見える。
【第五十三図】幾久の峠 いくさのとうげ 津和野城山の西、喜時雨と中原との境にある峠を幾久峠という。従来はこの山の麓をめぐって通行していたが、幾久鴨御猟場が設けられたために通行が禁止され、新たにこの峠を通る道が作られた。城郭の裏側を眺められる。
2人の旅人が峠で遠く青野を望みながら一服する姿が微笑ましい。
【第五十四図】高田の四方藪 たかたのしほうやぶ 藩主宗家である亀井家には分家があり、高崎亀井家(こうさきかめいけ)と呼ばれていた。高崎亀井家の本邸は中座にある(第六十三図で別に描かれている)が、高田というところに別邸もあった。この別邸は文字通り四方を竹藪に囲まれていたことからこの名があり、絵にも鬱蒼とした竹藪が描かれている。8代藩主亀井矩賢(これかた)の著書『幾久(いくさ)紀行』に「昔この邸で和泉式部が小式部を産み、近くの白糸の滝の水を産湯とした」と書かれている。
【第五十五図】高田の山のほとゝきす
たかたのやまのほととぎす 「高田の山」は、津和野市街の西、鹿足郡高田村にある山で、通称「高田山」とも呼ばれた。古来、ほととぎすの名所として親しまれていたようだ。『幾久紀行』にも、「高田の山のほととぎすが繰り返し啼く夏の夜の云々」という文章がみられる。
ほととぎすが鳴くと霜が明けるといわれ、春の訪れすなわち農作業の始まりを告げる様子を描いている。
【第五十六図】白糸の滝 しらいとのたき 白糸の滝は、鹿足郡高田村にあり、水量が多い時には水が岩角を越えて直接滝壺に落ち、あたかも糸を乱す様子に見えることからこの名があるという。
また、和泉式部がこの近くの四方藪で小式部を産んだときにこの滝の水を産湯に使ったという伝説もある。絵の左側には滝を眺めている武家の一行が描かれているが、床几に座っているのが藩主と思われる。藩主も時に涼を求めて訪れたのであろう。
【第五十七図】神田潜り岩 じんでくぐりいわ 「神田」は「じんで」と読み、名賀川(旧名は神田川)が津和野川(錦川とも)に合流する辺り、茶臼山の麓付近を指す地名である。
潜り岩は、いつの頃か大きな落石があり、さらにその上に落石が重なったためについに路傍に大きな岩穴が出来た。その岩穴を人々が潜り抜けて通行するようになったところから「潜り岩」と名付けられたものである。現在は、この潜り岩の明確な場所や痕跡はよくわからない。
【第五十八図】茶臼山 ちゃうすやま 茶臼山は大蔭というところにあり、麓の西側を神田川(じんでがわ)が流れている。「茶臼山」という名の由来は、山の形状が、茶葉を挽く道具の茶臼に形が似ていることであろう。『幾久紀行』にも、「水にもまるる茶臼山挽木にあらで薪樵る云々」(「茶臼山と言っても挽木を取るのではなく、樵は薪を取っている云々」というほどの意味か。「挽木」とは茶臼に使う棒のこと)という文がある。
【第五十九図】陶ケ嶽 すえがたけ 陶ケ嶽は、津和野市街南の大蔭と呼ばれる地にある山。もとは大蔭山と言うが、吉見正頼が三本松城(津和野城)主だった時代に、山口の大内氏を下剋上で討った陶晴賢が津和野攻略のためにこの山に本陣を構えたことから、のちに「陶ケ嶽」と呼ばれるようになった。
吉見・陶両軍は数度の激しい戦闘を交えながら約5か月間にらみ合いを続けたのち、和睦を結んだ。このとき陶軍が置き去った茶釜や鐘などがここから見つかっている。
【第六十図】野坂 のさか 津和野市街の南、長門国との国境にある峠を野坂といった。「長門両国国界」の標示杭が立てられていたという。里治は解説文で、道の中央にある石(絵の奥に小さく描かれている)は俗に「鼻そぎ石」と呼ばれるものだ、と書いているが、それ以上の説明はない。津和野町史には「断髪岩」とも。罪人の刑罰に関係するものかも知れないが詳細は不明である。
街道に沿って植えられた松並木は、往来する人々に心地よい日陰を提供したと思われる。