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津和野百景図【第四巻】
百景図一挙紹介
第四巻
【第六十一図】桂川の川柳 かつらがわのかわやなぎ 桂川は津和野市街の南方、大蔭を流れる川で青野山の麓から津和野川に注いでいる。近くには風呂屋稲荷という神社の痕跡があり、辺りに川柳が多く生えている。8代藩主亀井矩賢(これかた)著『幾久紀行』にも、「桂の川の川柳云々」という文章がみえる。
里治は、この川の豊かな水を利用する水車小屋を多く描くとともに、その周辺に広がる水田や盛んに行き交う里人たちを描写している。
【第六十二図】中座庚申堂 なかざこうしんどう 中座庚申堂は津和野市街の東南にあり、この土蔵は籾を貯蔵するものである。この地は長門の国へ通ずる主要な往来である。
札守の箱は、ここが市街の南側の境界であることを示している。城下の東西南北すべての境界に札守の箱が建ててある。
このうち「中座」は現在もある地名であり、「庚申堂」は全国的にみられる神仏習合的な民間信仰である庚申信仰のお堂のこと。「札守の箱」は「津和野市街絵図」にも描かれている。
【第六十三図】高崎邸 こうさきてい 高崎(こうさき)邸は、津和野藩主家亀井家の分家「高崎亀井家」の本邸である。
津和野市街の中座にあり、描かれている門は東側の表門である。裏門は北側にあり門内に中仕切り門もあった。邸宅は茅葺きだった。明治2年(1869)正月11日、火災によって失われたため、現在この地は児童公園や集会所が設けられており、りっぱな石垣の遺構のみが当時を偲ばせる。この東側表門付近を指す「本門前」という地名は今日も残っている。
【第六十四図】高崎の松 こうさきのまつ 第六十三図の高崎亀井屋敷を囲む土塀の外側、絵の右側に描かれている中座橋のたもと近くの路傍に数本の古木の松があった。人々はこれらの松を「高崎松」と呼んで親しんでいた。絵にもあるとおり、古木ゆえに垂れた枝に柱を建てて支えていた。昭和60年ごろまでは健在だった。
絵の中で松の下を、天秤棒を担いで歩く人が描かれているが、この人は松茸か何かを行商しているのであろうか。
【第六十五図】横堀米廩 よこぼりこめぐら 森鷗外生家の住所を当時の表記法で記せば、「石見国鹿足郡町田村横堀」。この「横堀」という地名の起源となったのが、この絵に描かれている堀である。
絵の中で手前に横向きに大きく描かれ、蓮で埋まっているのが横堀で、横堀から垂直方向(絵の手前から奥側)に伸びているのが、城の外堀として作られた本堀である。本堀の長さはここから五百間(約900m)あったという。米廩(蔵)は藩の御用蔵で、鷗外宅の真向かいにあった。
【第六十六図】上中島より原の裏を望む図
かみなかしまよりはらのうらをのぞむず 上中島(かみなかじま)とは、錦川(津和野川)に沿い、常盤橋東側から幸橋東側までの地名である。常盤橋西側の原というところの裏手の川辺に物洗い場があり、これを俗に「汲み地(くみぢ)」と呼んだ。常盤橋脇から村田家、久野家など合計六家のくみぢが並んでいる。里治は、それらに続けて、普請方屋敷、広小路、物見櫓などを描き、一番奥側に小さく幸橋を描いている。
【第六十七図】鳴滝 なるたき 津和野市街の町田というところに瀑布(滝)がある。「鳴滝」といい、水落差が約16mである。この滝の水はとても清いので、近くの滝の前、町田、中丁、横堀などに住む人々はこれを飲用としている。
古くは成就院という修験の寺や文殊堂があったが、里治がこれを描いた大正2年ごろは琴平神社があった。この滝は別名「仁王洞の滝」とも言った。滝の近くにある洞の中には蝙蝠が多く生息している。
【第六十八図】堀内御番所の景 ほりのうちごばんしょのけい 津和野市街の横堀から森町(現在の「森村」)にかけて外堀があった。その外堀の中央辺りに森町から入る門があった。この門内を「堀内」と言ったので、この門(番所)を「堀内御番所」と呼んだ。
里治は「この番所は安政の景をうつせり」と書いている。津和野市街全体で、門は、原、上中島、堀内、森、殿町の5か所に設けられており、午後6時から午前6時までの間は通行が禁止された。このうち森と殿町の2門は「総門」と呼ばれた。
【第六十九図】森の本町下モ手 もりのもとまちしもて この絵に描かれた、津和野市街の森町の中心部辺りから森総門までの間の外堀沿いは、多くの旅人らが盛んに往来する道路だった。堀の向こう岸の土堤は嘉永6年の大火までは竹藪だったが、その後松が植えられた。
里治は「この絵は安政から明治4年の頃の光景だ」と解説している。往来を行き来する人々を見ると、様々な服装、職業、階層の人々が描かれており、当時の時代感を彷彿とさせ、興味は尽きない。
【第七十図】森総門 もりそうもん 森総門は、津和野市街全体に五か所ある門のうちの一つである(六十八図でも説明)。森町にあるので「森総門」と呼ばれた。
昼間は見張り番2人が常時詰めており、夜中には門戸を閉ざした。もし出入りしようとする者があれば、その氏名を確認したうえで不振な点がないと分かれば通行を認めた。門前には、「是より内へ他所もの入るへからす(ここから内へは、よそ者は入ってはならない)」の立て札が設けられていた。
【第七十一図】松林山天満宮
しょうりんざんてんまんぐう 松林山天満宮は、津和野市街東の山腹にある。寛文3年(1663)に家老・多胡主水が新たに御神体をここに勧請したと伝えられ、それ以前は後田にあったという。絵の中央に描かれた2棟の社が天満宮である。
天満宮の左上にある小さな鳥居のある社は大神宮という神社であり、その奥の山頂付近にあるのは愛宕神社だという。しかし、里治がこの絵を描いた大正頃ごろにはそれらはすでになく、天満宮のみがこの山にあったようだ。
【第七十二図】天神祭 てんじんさい 松林山天満宮の祭事は、毎年陰暦4月14日から17日にかけて、津和野下市の弥栄神社の御旅所に神輿をかつぎ出して行われた。この絵は、14日の御神幸で神輿が錦川を渡御する際の光景である。
こちら側の川岸には多くの提灯を掲げて見物の人たちが見守っている。また、川の中では、神輿をかつぐ人達がたくさんの松明を振っている。かつぎ手も見物人も口々に「ヨイサアチョイサア」という掛け声を勇ましく発したという。
【第七十三図】三軒屋の夕立 さんげんやのゆうだち 三軒屋は、津和野市街からおよそ300m北にある里の名で、寺田村へと続くところである。里治は解説文で次のような句を紹介している。「夕立や俵が駆る三軒屋(その付け句)エゝくっそふ分銅屋に油徳利忘れた」分銅屋は津和野本町にある、びん付け油などを販売する老舗である。買い物帰りに三軒屋辺りで夕立に見舞われた上に、分銅屋に油徳利を忘れたのを思い出して悔しがる庶民の光景がユーモラスかつ活き活きと描写されていて楽しい。
【第七十四図】寺田の蛍狩 てらだのほたるがり 寺田は津和野市街の北にあり、錦川(津和野川)に沿った縄手(あぜ道、または真っ直ぐな長い道のこと)が八丁(丁は町と同じ、約870m)も続き、夏には多く蛍が飛び交うので、津和野市街から多くの人たちが集合して蛍狩りをしたところである。
寺田は第三十九図「鷲原の桜」で、鷲原に並ぶ桜の名所としても紹介されており、春は桜、夏は蛍と、趣深い里として親しまれていたようだ。
【第七十五図】松尾谷の景 まつおだにのけい 松尾谷は鹿足郡直地村のうち北西にあたる高地にあり、春秋には雉が群集するところである。その為、殺生方という役職の者にいつも雉を飼い付けさせていた。
時折お殿様が御狩猟にお出掛けになることがあったが、その時は、寺田村から坂道を御駕籠で登って来られ、途中の御駕籠建場というところで御駕籠を降り、そこからは徒歩で向かわれた。御出立はいつも午前4時頃だったため、高揚げ提灯を用いていた。
【第七十六図】七曲りの釣魚 ななまがりのうおつり 寺田より和田村に至る川沿いの地を、里人は七曲りと呼んだ。川が幾重にも曲がっている。釣り人は寺田より七曲りを釣り下り、和田に出てから升峠を越えて城下に戻った。それを和田廻りと呼んでいた。各自百匹前後の魚を釣ったとあるから、魚影は濃い。親子で魚釣りを楽しむ姿は、今も昔も変わらない、微笑ましい姿である。
フナやハエの料理が、さぞ膳を賑わせていたことだろう。現在の七曲りはすっかり水量が減った。
【第七十七図】小直の雄瀧 おただのおんだき 津和野城下町から日原地区に向かう途中に小直(おただ)という土地がある。その山中に渓谷があり、渓流に落ちる雄瀧、雌瀧という滝が2つある。百景図では、遊歩道の手前側にある滝を雄瀧と称している。頭上から落ちてくる瀑布を受け止めるかのように、見上げる瀧。赤い岩に伸びる白糸のような流れが美しい。
【第七十八図】小直の雌瀧 おただのめんだき 遊歩道の奥側にあるのが雌滝。藩主隠岐守玆監(おきのかみこれみ)候しばしば遊覧ありし処なり、と里治は記している。雌滝は斜面を滑るように降りてくる水を間近に見ることができる。太く白い流れが印象的だ。
印象が異なる滝がこれだけ近くに2つあるのは珍しい。百景図にはここを含め滝が4か所描かれているが、藩主はよほど滝を愛でるのが好きだったようだ。
【第七十九図】龍法師の塒 りゅうぼうしのねぐら 龍法師山は津和野市街の東、青野山のふもと南側に位置する三角形の形をした山である。晩になるカラスがねぐらにする処と里治は記している。夕方なると決まったようにカラスが群れをなし、カアカアと鳴きながら龍法師の山に消えていく、そんな景色の絵であろうか。カラスが鳴くから帰ろうと歌にあるように、それを見た子どもたちも家路を急いだに違いない。
【第八十図】妹山の景 いもやまのけい 当時は青野というより妹山という呼び方が通りが良かった。なだらかな山の稜線が、優しい女性の姿を連想させるからであろうか。
人麿の歌に詠まれた妹山、谷文晁に描かれた妹山、山王権現を祀る霊山としての妹山、花の名処として町人に親しまれた妹山、遠く日本海では漁師が山立てに使った妹山、藩士の鍛錬の場にもなった妹山、まさに津和野のシンボルである。