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津和野百景図【第五巻】
百景図一挙紹介
第五巻
【第八十一図】青野の景 あおののけい 青野山は標高908m、白山火山帯に属する火山である。正面の左側に大きな溶岩崩れの跡があり、里人はそれを「鯛の背」と呼んでいた。百景図では位置関係にかかわらず、青野山を描いた時は「鯛の背」が描かれている。その下にある広い原野が青野河原である。
秋は七草が咲き乱れ美しい景色だ。しかし、草刈りのもの以外に訪れるものは少ない。
里治は「草刈りの見るのみ惜しき花のかな」と詠み、この景色を惜しんだ。
【第八十二図】青野の虹 あおののにじ 青野の山から松林山にたなびく大きな虹をとらえた。虹は夕日が沈もうとしている時によく現れると里治が記している。
夕立に洗われた薄暮の空、青野から立ち上がる虹の姿を、城下では幾度となく眺めたことだろう。想像するだけで美しい。最近はこのような美しい虹を見ることが少なくなった。
【第八十三図】ごんどうじの蕨 ごんどうじのわらび 柿木のごんどうじはワラビの宝庫だった。描かれているのは、現津和野町と吉賀町の町境付近の峠の風景で遠くには小高い山々が連なっていて、山深い。
津和野から二里余もある山中に、大勢の者が出かけたとある。最も大いなるワラビの生ずるところは釜ヶ溢と、細かい場所の紹介まで記してある。なお、藩主は蕨餅が好きだったという文献も残っている。
【第八十四図】きまんごくの景 きまんごくのけい きまんごくは、柿木と津和野中座との境の山中である。鹿が多く生息していたとある。狩りをする者は、宵のころよりこの山に入り夜明けに至ったとあるから、暗いうちに猟をしていた。津和野市街からは東南にあたりいと近しとあるから、中座からは直ぐに行けたようである。
鹿は絵で見ると何とも美しい姿だが、農民にとっては野山を荒らす害獣で、退治せずにはいられなかった。
【第八十五図】吉賀の猪 よしかのいのしし 吉賀は山奥で猪が多く生息していた。雪の深い冬は、食を求めて里近くまで出てくるので、里人は槍や鉄砲で猟獲していたと記している。藩主狩りの巡見の時、狩人が取り逃がしたが、「こいこい」と手を挙げて招けば、猪が振り返って突進してきて、狩人の構える槍に自ら突きかかって斃れたと、何とも面白い逸話が記されている。
今も昔も、猪の被害に農家は泣かされている。
【第八十六図】左鐙の香魚 さぶみのあゆ 日原の南、左鐙の畳石と呼ばれる河原の景である。川は高津川の上流、地元では吉賀川と呼んでいる。おびただしいほどの鮎が描かれているが、当時はこうした天然物の鮎が、川面を埋めるほどのに遡上していた。
闇夜に網を張り、たいまつの火を振って追い込み、余す残らず猟したとあるから、まさに一網打尽である。また、この辺りは平家の落人伝説が伝わっている。
【第八十七図】枕瀬の渡舩場 まくらせのとせんば 枕瀬村から日原村へ向かう渡し船である。その後須川、美都を抜け飛び地である今市、日貫(現浜田市)と道は続く。枕瀬村は津和野藩領、日原村は銅山を抱える幕府領であった。
柴船に乗せた荷物は、左鐙辺より伐り出した薪とある。銅の精錬には多くの燃料を使っていたため、そうしたことに利用される薪だったのかもしれない。日原は銅やたたら、ロウ等の生産が盛んで商業が栄え、人や物資の流通には船が多いに活躍した。
【第八十八図】徳丈の峠 とくじょうのとうげ 徳丈は通常徳城と書くが里治は徳丈と記している。徳城往還は津和野市街北の千原から商人、青原、添谷から横田、扇原の関門、浜田へと通じる道である。この絵の場所は柳から青原に抜ける途中の峠である。北には日本海に浮かぶ高島、南には青野山が見え景色のいい場所である。
茶屋もあり藩主もここで駕籠を休め、蕨餅など食したらしい。旅人も海に浮かぶ帆掛け船を眺めながら、一服している。
【第八十九図】青原驛 あおはらえき 徳丈の峠を越すと青原の渡船場へ出る。ここは往還本街道の宿駅となっており、道を挟んで両側に宿屋や商家などが建ち並び、当時は大変なにぎわいだった。たたらで財を成した原田庄屋が住んでいたのもこの地である。
絵は青木屋という歇家(やどや)の前で、馬夫が馬に乗せる荷物の荷づくろいをしているところである。益田方面に向かうには、一旦宿の前の枕瀬川を船で渡り、対岸の添谷から歩かねばならなかった。
【第九十図】横田の渡船場 よこたのとせんば 江戸時代は、徳川幕府の命令で河川に大きな橋をかけることが禁じられていた。一方で人や物資の流通は盛んで、高津川のような物資を運ぶ大動脈には、街道の接点や横田(現益田市)のような大きな集落には渡船場が発達した。
大きく手を振りながら船を見送る人の寂しさが、ぽっかり空いた空間のように描かれた川面と相まって、哀愁を漂わせた絵となっている。
【第九十一図】高津の渡船場 たかつのとせんば 須子(現益田市)という集落から高津へ渡る渡船の様子を描いた。多くの人が乗船しているが、人丸神社への参拝客かもしれない。
高津には「古川」と呼ばれる汽水湖があり、魚介の養殖が盛んで、塩作りも行われていた。北前船の寄港地でもあり、高津川流域の物産が全国へ流通した。明治23年(1890)には、橋がかかり渡船場なくなった。現在は、大型の商業施設が林立する新商業地となっている。
【第九十二図】高津人丸神社 たかつひとまるじんじゃ 人丸とは万葉集に数々の歌が収録されている柿本人麻呂のこと。石見国高津鴨島で没したと伝えられている。
津和野藩第3代藩主亀井茲親(これちか)が天和元年(1681)に、人麻呂が詠んだ歌にちなみ高角山に遷座した。拝殿は津和野城から遥拝できるように、津和野の方に向いている。もともと人丸神社は鴨島にあったが、地震で島ごと水没したという壮大な伝説にも彩られた神社である。
【第九十三図】高津の筆柿及筆艸
たかつのふでがきおよびふでくさ 実が細長く、墨を含んだ筆の穂先のような形をしている柿を筆柿という。筆草は、砂浜に群生するカヤツリグサ科の植物で、根茎が筆の穂先のような形になっている。この2つの植物が高津に自生しているのは、柿本人麻呂(人丸神社)の御神徳だと、里治は解説している。
【第九十四図】高津蟠竜湖 たかつばんりゅうこ 高津の谷間を、風で運ばれた砂が堆積して、せき止めてできた淡水湖である。竜がとぐろを巻いたような形をしていることから、その名がついた。
冬季は水鳥が多く飛来して越冬する場所だったと里治は記している。現在は水鳥の影は少ないが、周囲のクロマツの林は健在で、百景図に描かれた風情は今も感じられる。蟠竜湖県立自然公園として整備され、今は憩いの場となっている。
【第九十五図】高津浦連理の松 たかつうられんりのまつ 2本のクロマツの片方の枝が伸び、もう1本の幹に完全に癒着して「連理」の状態になっていた。琴平神社の境内にあり、古くから「夫婦松」として親しまれていた。里治は、筆柿や筆草と同様に人麻呂の神徳としている。
連理松は昭和9年(1934)に国の天然記念物に指定され観光名所になっていたが、高津浜が松食い虫の被害にあい、平成9年(1997)に一方の株が伐採された。その6年後には残った株も伐採され、現在は記念碑で往時を偲ぶのみである。
【第九十六図】年始家中出殿 ねんしたちゅうしゅつでん 毎年元日の寅の刻(午前4時ごろ)に津和野藩士が、年始の挨拶に侯館を訪れた。家老・中老・伍長・馬廻・中小姓・徒士・勘定格が集まっていたというから、家中総出の出仕である。
提灯をかざし、その賑わいは正月の風物詩となっていたようだ。藩主への挨拶は卯の刻(午前6時ごろ)だが、その1時間前に習礼(リハーサル)を行っていたため、未明の大混雑になった。
【第九十七図】正月十五日の墨塗り
しょうがつじゅうごにちのくろぬり 津和野城下町では、正月15日に「墨塗り」という風習があった。女子は通りを行き来する男子へ墨やおしろいを塗りつけて、辟易する様子を見て笑った。男子は橙(だいだい)を手ぬぐいに包んで隠し持ち、女子の尻を「尻祝い」と言いながら打ち付けた。とても微笑ましい光景だが、解説に「旧習」と記しているところを見ると、この絵を描いた大正2年の時点では失われつつある風習だったのかもしれない。
【第九十八図】御旗上覧 みはたじょうらん 亀井家の家紋「隅立四つ目結」が黒々と染められた軍旗(幟旗)を指した軍を閲兵する儀式が毎年5月5日、藩候館の庭園馬場で行われた。
前日に旗奉行新井七兵衛が御旗蔵より取り出した後は、足軽が寝ずの番をして旗を守った。御旗上覧は午前8時ごろに行われ、藩主は床机に腰掛けてご覧になった。絵から張り詰めた空気が伝わってくる。
【第九十九図】盆踊 ぼんおどり 津和野踊ともいう。
頭巾をかぶり、白い鉢巻を締めて団扇をさして、ゆったりとした拍子を優雅な所作で舞い踊る。中世に盛んに行われた念仏踊りの特徴を残している。幕末には旧暦7月14、15、16日の3夜に本町、森町、横堀町、清水町4カ所で行われた。
当時は森町に演奏の名人がいたため、数多くの踊り子が森町に多く集まった。現在は、8月10〜15日、津和野城下町各地で当時のままに執り行われる。
【第百図】主候の遠馬 しゅこうのとおうま 津和野藩第11代藩主亀井茲監は、夏の夕刻にしばしば馬の遠乗りに出ることがあった。行き先は喜時雨や寺田である。遠馬は思い立ってのことで、供回りはごく少数に過ぎなかった。茶道方、草履取り、敷物刀掛け持ちが駆け足で追いかけていく。茶道方が手にしているのは火縄で、目的地で茶をたてた。
はるか前を疾走る主君を追いかけているのは、若き日の里治だろうか。先立ったかつての主君への思慕が画面からこぼれてくる。